横尾哲生 アトリエ 訪問記 ■■■ 2007年7月22日

2007年7月22日、夕暮れどき。茨城県龍ヶ崎市にある、横尾哲生先生の アトリエにお邪魔してきました。
こんもりと木立の茂る中、木材が息づく場がそこにありました。
開放された部屋にはクレーンが設置されて制作中の大型の作品。壁や 元ガレージにも大小の木材。
庭には枝木が葉のついた状態で置かれていました。一見放置されているか のようですが、「葉枯らし」といって 伝統的な木材の乾燥方法(葉から水蒸気が出る)なのだそうです。
壁には材木がたてかけられ、横尾先生が端から手をのばして、
「イチイ、ユリの木、ヒバ、スギ、サクラ、キリ、エンジュ、 クルミ、ホウの木…」

──さまざまな「出会い」がそこにありました。──
まずは作業中のご様子、開放室内を拝見しました…
画像をクリックすると大きく表示されます。
壁にはドローイングがたくさん貼られています。
ドローイング 横尾先生(以下「横尾」)「こう、手をしゅっ、とね。そのスナップだよね。 ずっと繰り返しているうちに、形ができてきた。その凝縮」

下に見えるのはデスク、引き出しはお手製で、取っ手がまるで桐箪笥の ようでおしゃれです。

工具類。
引き出し かんなとのみ
左:いろいろ詰まった引き出し。こういう物入れが室内各所にありますが、 図書館などで使い終わったものを再利用しているそうで、一見雑然として いるかのような作業場に、ある種のたたずまいを見せています。

右:鉋(かんな)と鑿(のみ)。かんなは、木材の曲面を制作するために 加工してあります。角をとって丸くしてあるのがおわかりでしょうか。


大型の木材も、最初はこういったもので荒く形を とってゆきます。
チェーンソー

楠の木、木材との出会い。
クレーンの真下には、加工中の楠の木による大型の作品が。
できあがりは展覧会会場にて御覧下さい。ちょうど木材の隙間にジャッキを 入れ、じわじわと力をかけて湾曲を作っているところでした。
室内から外の庭まで、蒸すほどに楠の匂いが漂って いました。木の汗、あるいは体臭…ともいうべき匂いで満ちていました。
私事ですが、私は10年ほど前に、ふとしたきっかけで、楠の木の葉を口に 押し込んで噛んでみたことがあります。青くつんと爽やかな香りでした。 あの葉の味と香りが、ここで木の体臭と結びついたのはまったくの不思議 でもありました。─
その造形中の作品の、形は、まだ荒さがあるもののきわだった繊細さを 既に見せていて、曲面に「削るタッチ」を残してありました。
全体の原型は画像のドローイングです。
ここしばらく、横尾先生の作品のモチーフは 「花びら」「種子」「命」「循環」「男」「女」… それは、そのモチーフにゆきついた、と表現するのがふさわしい のでしょうか。

横尾「観念、だよね(概念ではなく)。 考えないでひたすらひたすら作っていったら『種』になった。 その方が(考えて作るより)人に伝わる」

それから「月」「船」「鳥」のモチーフ…

横尾「自分の中に物語を作る。その思い入れが作品の強さになるんだよ。 その思いは一旦自分から引き離すことが必要。それが展覧会。そうして 観て、また自分に戻ってくるんだよ」
廃材を利用するということですが?

横尾「この楠の木はね。竹園高校(茨城県つくば市)で採ったものなの。 樹齢27,8年くらいでね(←と、手を広げて 木の幹の大きさを示す)、 それではまだあまりにも若くて材木として使われない から、廃棄物になって、業者さんに2〜3万円払って処分するものに なっちゃうんだよ」
[ 廃棄物 ] という言葉からイメージするのとはおよそ遠いもの、若くて まだまだ成長する植物のいのちが、人間の都合で [ 廃材 ] という名に なってしまうのでした。
そうして横尾先生と出会い、今変化をとげています。手招きされて、 別室で見せていただいたのが、また別の樹木の生き方そのものを そのまま形にした「かたち」でした。作品から伝わるその生命力の 荒々しさ、そしてあまりにも人間に近いという感覚に息を飲んだのでした。
横尾「出会ったものをなるべく活かしたいの。 出会うっていうのは、ただその樹木がサクラである、 楠であるとかいうだけではなくてね。 人間が育った土地によって言葉や肌の色が違ったりするように、樹木も 育つ場所によって、日照時間や土や空気、環境で、ひとつひとつが 違うものとして生きるんだよ。風土だよね。 風土もあわせて、大事にしたい」
アトリエのデスクの上から取り上げて見せていただいたのは、より木材の 特性をいきいきとさせるための縁の下の力持ちである、天然成分のオイルや 蜜ろうワックスでした。木が呼吸し続けられることが大切なのだといいます。
美術と社会について─
横尾先生は、幼稚園のギャラリーや、病院での創作活動に携わって おられます。そのことに話題が及びました。

横尾「 美術というものは、社会にとってではなく、人間ひとりひとりのために 存在するものだし、そうあるべきなんだよね」

ひとつの例を話してくださいました。
小さな子供に雲母(うんも)という名を教えずただそういうものがあると いうことを示したら、その子は一年間かけて幼稚園の砂場で雲母の小さい山を 積み上げたそうなのでした。

横尾「それが『雲母』っていう名前でどういうものかなんていうのは 話すのはずっと後でいい。子供に、名前=意味 を教える前に、『アッこれ面白い』という感覚を耕すのがいい。 そういう経験を積むと、小学校で算数を習っても知識の吸収の仕方が 違うんだよね」

横尾「美術というのは、人の内側と外側を 行ったり来たりする方法論。たくさんの書庫ではなくて ひとつのことをずーっと深める、そうするとぱっと広がりができて 他の人との共通項になるね、そうありたいね」
横尾「(今の世の中は)美術が特別なものでありすぎる。 社会の中、街の中にどこに行っていても面白いもの、 ごく普通にある存在であるべき。 ファッションなどは今ややそうなりつつあるけれどね(笑)
だから幼稚園にも病院にもあっていいし、それこそ食堂に行く 感覚で見たり触れたりできるといい。ヨーロッパみたいに、 その日の気分で絵をかけかえることができたりするのがいいよね」
横尾「今、観賞する時に、言葉にできない想いを一生懸命言葉に しようとしているけど、言葉にできない 部分を大事にしたいよね。
ゴッホの『ひまわり』という絵、あれよりも実際のひまわりの花の 方がきれいだと思ったりするかもしれない。 花を見て『うわーっ!』と思ったりする、それは 『美術する』ということなんだよ。 でもゴッホはああいうふうにひまわりを観た。その作品が『美術』 なんだよね。『美術する』ということは大事なことなんだよ」
人と木について。
最後に、横尾先生の書斎を拝見させていただきました。木、植物、 世界各地で人間が植物とどう共存しあるいは倒れてきたかの歴史、 それらに関する蔵書がずらりと並んでいました。

横尾「木は100年くらいのスパンで生きるしね。なんだかとても人間に 近い」

限られた範囲でお話をうかがった中ででしたが、私にも、それぞれの 風土で種から産まれ、育つ、ひとりひとりの生き方で生きる木があること、 いのち若くして伐られたり倒れたりすることがあっても、巡り合わせで 横尾先生と出会い…また次の姿で息づく形がまさにここから始まるのだと いうことを目に焼き付け、匂いと共に吸い込みました。 アトリエを最後に見回して、それが結実する展覧会に思いをはせました。
文章担当:Art Space ある・る くわばらともこ
ありがとうございました。
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